いつでも思考はマリアナ海溝

様々なSNSや情報の波にのまれ、疲れてしまった人々に届けたいゆっくり考えることができるブログです

言霊の力

 日本には言霊という霊的な現象がある。発する言葉には強い効果があり、現実に強く紐づいているという考え方だ。簡単に言えば、ポジティブな言葉を発すれば、ポジティブな現実になり、ネガティブな言葉を発すれば、ネガティブな現実になる。

 

 言葉が現実を大きく左右する。それが言霊だ。一番古い日本の言霊の記述は、古事記であり、日本の古代思想であることがわかるだろう。

 

 今日はその言霊の力を試した実験をいくつか紹介していこうと思う。

 

ありがとうを言うと米が腐りにくくなる?

 この話はスピリチュアル好きなら聞いたことがある話かもしれない。炊き立ての米を入れたビンを三つ用意する。一つは何もしないでただ置いておく。二つ目は毎日バカヤローと言う。三つめは毎日ありがとうと言い続ける。

 

 非科学的であり、言葉の周波数を測る装置もないため、信じるか信じないかはあなた次第な、実験だ。

 

 この実験の結果として、無視し続けた米の腐敗が一番早く、二番目にバカヤローと言い続けた米。最後腐敗が一番進みにくかったのが、ありがとうと言い続けた米だ。

 

 重要なのは一番早く腐敗するのが、何もせずに放っておいた米だったということだ。普通に考えて一番早く腐敗するとすれば、バカヤローと言い続けた米な気もする。しかし、放っておいた方が腐りやすいということは、その存在を無視し続けるということが一番悪いということだ。

 

 そして言霊の力があるのだとすれば、言葉の周波数は、物に影響を及ぼすtoiukotoninaru 

 

ABCDEFG・不思議物品研究室・「ありがとう」と「バカヤロー」と「ご飯」の実験

 

ありがとうの力

 言霊の中でもありがとうの力はすさまじいということを聞いたことがあるだろうか。センキューでも、グラッツェでも、謝謝でもなく。『ありがとう』が一番良い言葉なのだ。

 

 なぜなのかはよく分からないが、スピリチュアル業界では『ありがとう』は一番波長が良い言葉だと言われている。

 

 それに対して否定も、賛成もしないが、感謝の言葉が特別なのは私も感じている。

小さいおじさん見た話

 小さいおじさん伝説を耳にしたことはあるだろうか。神出鬼没で、目撃例が後を絶たない。日本の都市伝説の代表例である。

 

 体長は8センチから20センチほどと小さく、中年の男性のような見た目をしている。小さいオジサンだ。害があるという噂は少なく。幸運を運ぶ小さいオジサンと言った情報が多い印象にある。

 

 今日はそんな小さいオジサンを、実際に見た私の体験談と、なぜ小さいおじさんが見えるのか、私なりの考察をしていこうと思う。

 

日本の都市伝説小さいオジサン

 

箪笥に座っていた小さいおじさん

 それは私がまだ五歳や六歳の時の話だ。私は姉の部屋の二段ベッドの下で寝ていた。ベッドに寝た状態で姉の箪笥が見える。姉は物をたくさん持っていたために、箪笥の上にも色々物が乱雑に置かれていた。

 

 夜中に目が覚め、私は目を見開いた。視界に入ったのは、箪笥の上に座って眠る小さなおじさんの姿だった。

 私は思った。なんて気持ち悪い人形を置いているんだろう。

 

 その時の私は小さなおじさんが座って眠っていたのもあり、ジッと私は見つめていた。不思議と怖くはなく、ただじっと見つめていた。人形ぐらいだったために20センチぐらいだったと思う。

 

 そのまま私は眠ってしまい、次の日起きてみると、そこには何もなかった。人形が亡くなっていると思い、姉に聞いてみてもそんなものはないらしかった。

 

 そこでやっと私は不思議なものを見たのだと自覚した。

 

 

小さいおじさんとはなんなのか

 小さいおじさんについては様々な考察がされている。よく言われるのが、小さいおじさんが見えるのは病気だからであるということ。精神疾患や、幻覚だといわれる。けれど科学では証明できないことを、本人の幻覚や精神の異常だと考察するのは、私は好きではないため、精神疾患だと思っている方は他の記事を参考にしていただきたい。

 

 物理的、科学的に不可能な視点での考察として二つ、紹介していこうと思う。

 

木の妖精説

 小さいおじさんは妖精かもしれない。という噂を一度は耳にしたことがあると思う。私はさらに追及して、妖精の中でも木の妖精ではないかと考察した。

 

 なぜ木の妖精であるのか。小さいオジサンの目撃情報には木に関連することが多い。切り株の上に座って、ランプで暖を取っていた。また、小さいおじさんを見た前の日に、庭の木を伐採していたなど。

 

 私が小さいおじさんを見たのも、両親が庭のクルミの木を切ったあとなのだ。

 つまり小さいおじさんは、木に住んでいる妖精で、住んでいる木を伐採されると、他の木へ移り住む。その移住する過程で、人の目に触れるのではないか。

 

 実際日本は、領土の7割を森林が占めている。小さいオジサンが木の妖精の可能性は高いと私は思う。

 

地獄の窯に行きそびれた餓鬼

 次に餓鬼ではないかという考察だ。これは住職である三木大雲さんという方が提唱している。youtubeで『小さいおじさん』と検索すると上位にヒットするので、ご覧いただきたい。

 

 動画の内容を簡単に説明すると、人々が見る小さなおじさんいうのは地獄の窯が閉じる前、地獄へ帰りそびれた餓鬼である。ガキとは、仏教の霊的存在で、欲望や執着によって苦しむ霊魂とされている。体長10センチから30センチほどとされていて、小さいおじさんとドンピシャだ。

 

 お盆の時、地獄の窯が開いて、亡者たちが人間の世界へ戻ってくることを知っているだろうか。きゅうりの馬で速く帰ってきて、ナスの牛でゆっくり帰ってくる。

 

 その時餓鬼も一緒に地獄から出てくる。けれど、蓋が締まる前に帰れなくなる時がある。帰りそびれた餓鬼が、徘徊しているということだ。

 

 これらが私の中で興味深かった考察だ。私が体験した小さいおじさんとの出会いの話も併せて考察していただければと思う。

神道を分かりやすく解説

 皆さんはしんとうを聞いたことがあるだろうか?何となく耳にしたことがある、という人が多いと思う。もしかしたら気にしたことがないだけであなたも神道を信仰している一人なのかもしれない。

 

 日本の人口は1億人ちょっと。だが、日本の宗教信仰者は2億人近く。なぜこのような矛盾が起きてしまうのか。それは神道信仰者が7000万人、そして仏教も7000万人ほど。キリスト教など、もろもろの宗教も組み合わさると、2億人となってしまう。

 

 つまり神道と、仏教を一緒に信仰している人が多いためだ。日本は無宗教といいつつも、宗教的な行事は様々な行っている。

 

神道の行事…初詣、節分、七夕、七五三。

仏教の行事…お盆、お彼岸など。

キリスト教の行事…クリスマス

 

 また結婚式は教会で行い、葬儀は仏教式と神道式が組み合わさったようなもの。神棚は神道だ。これは他の国から見るとかなり異様な文化だと言えるだろう。キリスト教徒が聞けば『why!?』となる。なんでキリスト教徒じゃないのに、教会で結婚式上げてるの?となる。

 

 これは世界が目指す多様性の本当の姿だろう。ではなぜそんなことができるのか。それは神道があるおかげなのではないかと思う。

 

 ここで神道について詳しく説明していこうと思う。神道の起源については分かっていない。特定の創始者や、経典が存在しないのだ。けれど私達が認識できていないだけで、本当はいるはずだ。けれど古すぎて、それが伝わっていないだけだと私は信じたい。

 

 すると仏教やキリスト、世界最古と言われているゾロアスター教よりも古い可能性も否めない。

 

 そんな不思議な宗教、神道の主な内容はなにか。経典もなければ創始者もいない。一体何を人に伝えたいのか。それを説明するのは少し難解なため、私の考えを書かせてもらう。

 

 神道で一番重要なのは、すべての人や物に感謝することだと私は思う。物さえも付喪神という神になることができ、祖先も神に等しく、山や、川や、自然も神。それが神道なのだ。

 

 自分の周りで、私自身を生かしてくれているすべてのものに感謝する。それらすべてが神に等しく尊い物なのだ。そして特に重要なのは、先祖崇拝だ

 

 なぜ日本人がここで安全に平和に生活できているのか。それは何代も前の御先祖様が日本を他国から守り、伝統をつないできてくれたからだ。それは2000年というほんの短いではない。縄文時代からの1万年5000年前からそれは続いている。

 

 15代前の先祖までさかのぼると、その先祖の数は何人に上るか知っているだろうか。2の15乗は3万だ。15代遡るだけでその数は3万人になる。

 

 こういう考え方が日本にはある。そしてそれが神道なのだ。日本の生活に神道は切っても切り離せないものだ。でもそれを日本人は意識していない。意識していないほどの神道は日本の生活に浸透している。

 

 それはもはや、神道は宗教ではないように見えるかもしれない。

 

 ただ朝起きてご先祖様に手を合わせるだけで、それは神道として正解なのだから。でも、

 

  ではなぜ神道が他の宗教を受け入れる、多様性をうむ理由になるのか。それは神道に経典や、創始者もいない。神道が宗教という枠にはまっていないからこそ、他の宗教に関して寛容になることができるのではないかと思う。

 

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悟ると人生は楽になる。

 人生が楽になった考え方をここに記録していこうと思う。人生の考え方には様々ある。人が存在する数生き方は存在する。奇跡的な人生もあるかもしれない。落ちぶれてしまった人の人生もあるかもしれない。

 

 幸せの在り方も、形も人それぞれだ。そんな生き方の一つをお教えしておこうと思う。これは自己啓発かもしれない。でも積極的にこの考え方を取り入れていく必要はない。ほとんどの自己啓発は『私みたいな生き方を幸せになれる!』というような書き方がされているけれど、そんなもの本人でなければ分からないのだから。

 

 そのため、軽く参考程度に読んでいただければと思う。

 

 まず私が生き方や、考え方を改めるきっかけをお話していこうと思う。私が生まれたのは都会ではなく、噂がすぐに広まる田舎だ。中学校は小学校の繰り上がりで、私立の中学なんかも遠いため、中学受験という概念もない。親も受験に積極的でない。

 

 勉学が中心な学校でないため、自然とスクールカーストが出来上がる。人の悪口を堂々と言える人間が自然と上に立っている。被害者ぶるわけではないが、悪口を廊下で吐き捨てられることは日常だ。

 

 そして私の同級生たちは、いわゆる問題児が多かった。授業を聞く気がない人間ばかりがそこにいる。私は感覚過敏なため、特に耳に入ってくる情報に関して酷く嫌悪した。

 

 教師達も被害者なため誰も生徒達を止められない。そんな学校に2年半通い続けた。けれど3年生の文化祭が終わった後、燃え尽きたように私の体は自由が利かなくなった。学校へ行こうとすると過呼吸になり、パニック障害を起こした。

 

 普通、病気になると学校を休むが、心が病気になっても学校に行かなければいけない。過呼吸を起こしてでも学校に行った。教室ではなかったが、別室に通い続けた。卒業し、通信高校に通い始めても、私の過呼吸は収まらなかった。

 

 それよりも、他の人と離れていく気がして、焦った。でも焦ってもうまくいかない。焦って、失敗して、鬱々とする。その繰り返し。でも高校に入学し、半年ほど経ったとき、私は頭で考えることを始めた。

 

 どうしたらこの苦しい状況から逃れられるようになるのか考えるようになった。まず何で自分を苦しめているのか考えた。出した答えは『考えすぎ』だった。私はいつも不安に駆られていた。そして人と話すと自分が何かおかしなことをしなかったか、とても気になった。でもとある本でこんなことが書かれていた、脳が考えている7割はどうでもいいことだと。

 

 そこで体がフッと軽くなった。私はどうでもいいことを考え続けて、悩んで自分を苦しんでいたのだと。そして考えないために寝る前に瞑想を始めた。

 

 他に私を苦しめていることは何かを考えた。それは未来への漠然とした不安だった。私は全日制ではなく、通信制に通い。皆とは違うという気がしていた。でも未来に対して不安を感じる事をやめた。そして漠然としたポジティブな未来を考えるようになった。

 

 私はまだまだ子供だ。経験も何もない。だから失敗して上手く生きて行けばいい。最初から成功する人間はどこにもいない。そんな楽しい未来を創っていくために私は好きな事だけを続けるようになった。嫌なことは一切しない。ただ好きなことをやる。

 

 きっとそれらが未来を形作っていく。

瞑想をすることで起こった変化

 私は暇があると瞑想をしているのだが、瞑想をしていて不思議な感覚に陥ることがある。

 

 自分の体が、まるで入れ物のように感じる。自分の物のはずなのに、自分じゃない気がする。まるでゲームのキャラクターのように操られているような感覚になる。私の意志として動く本体がどこかに居て、私を操っている。

 

 キャラクターとして操られている感覚は幼少期から時々あったのだが、自分の体を入れ物のように感じ、違和感を感じたのは瞑想を始めてからだ。

 

 それから瞑想をする中で、湧き上がってくる言葉などは、すべて私が考えていることではない。私が考えているのではなく、勝手に浮かんでくるのだ。そして瞑想をしていると湧き上がってくる言葉が私が考えていることではないと気付いてくる。

 

 瞑想をしていく中で私という人間は本当はどこにいるのか考えてしまうようになった。ここにいる私は本当に私なのだろうか。

 

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感情的なツイートが引き起こすXの変化

 XがTwitterと呼ばれていた時代、もっと治安が守られ、ルールが守られている場所だった。しかしながらXはいまや、スラム地帯となってしまっている。なぜそのような風になってしまったのか岡田斗司夫さんの考えを元に、深く探って行こうと思う。

 

 現在Xの治安の悪さが酷くなってきていると私は思う。SNSというフィールドを生業にする戦士たちの過激な思想はもちろんのこと、感情的にツイートしている人がとても多い気がしている。そして感情的にツイートされた情報に対して、火に油を注ぐように、イイネとリツイートをする。はたして感情的にそのような行為をしていいのだろうか?

 

 これに対して岡田さんは、一時の感情的なツイートに対して宥めるような人がいなくなってしまったために、Xはスラム化してしまったと語る。Twitter時代は、一般的に間違ったツイートがされると、冷静な人がそれを正そうとしていた。知性と冷静さがある人間がそのアカウントに対して「駄目だよ」と宥めていたのだ。

 

 でもそういう頭のいい人間はどんどんXから離れていく。そのため宥める役の人間がいなくなってしまったのだ。すると一般的に難がある発言も共感者が集まれば、正しくなってしまう。

 

 それがスラム化の原因だと話されていた。納得した。なぜ私があんなにXに対して嫌悪するのかと言えば、宥める役の人間がいないからなのだ。私と同じ種類の人間が全然見つからない。

 

 堂々とツイートしているのはXをフィールドとして戦う人間と、感情的になってツイートする人間。どちらも誰かをいつも批判している。物事には裏表があり、コインのようなものだと思う。だから一方を見て意見を言うのは間違いだ。多角的に見るべきである。しかしながら、多角的に見ることができる人間がXには中々いない。

 

 そういう多角的な人間のツイートは面白みがないために、アルゴリズムに評価されないからかもしれない。それからツイートをするリスクを知っているために私のような人間は元々ツイートしないのかもしれない。

 

 こういうはてなブログなどでを、はけ口にしているかもしれない。でもこのブログも全く危ないわけではない。Xよりリスクが低いというだけで、何かしら不穏な発言をここでしてしまい、なぜだか不運が重なり拡散されてしまった場合は、人生終わりである。

 

 人口が少なく、感情的な人間が少ないこのはてなブログ内で、そんなこと起こるとは思えないが、発言にだけは気を付けていきたい。ホワイト社会が進んでいる今、汚い言葉は御法度。差別発言も、何もかもホワイト社会での罰則の対象となってしまう。

 

 そんな罰則なんて程じゃないだろうという思う人がいると思う。せいぜい嫌われて陰口を叩かれる程度だと。ホワイト社会を舐めないでいただきたい。

 

 罰則としてあげられるのは、様々だが、まずどれだけ美しい経歴も0から始めることとなる。そして住所特定なんかもあげられる。ネットの住所特定犯は本当に素晴らしい。ホワイト社会に飲まれたXは徹底的につぶしにかかってくる。

 

 ちなみに、バカ、アホ、クソ、これらの言葉を吐くだけで人生が終わるので気を付けていただきたい。私はすでに他の記事で『バカ』だけは言ってしまっているが、文脈を間違えずに読んでいただければ、納得していただけると思う。

 

 最後はホワイト社会を生き抜くための警告になってしまったが、Xの中でホワイト社会がじわじわと広がっていることは確実だ。ひっそり目立たず生きてほしい

ブログという私のお庭

 最近やっと私のはてなブログの基本方針が定まってきた気がした。ずっと私がほしかった私だけの箱庭が、ここにできた。誰にも侵食されず、のんびりマイペースに私の考えをここに書き綴っていくことができる。

 

 私は最初のはてなブログの基本方針として、最近の時事ニュースについてのブログを書き続けて行こうと思っていた。けれど私は自分が思っていたよりもXやマスメディアに嫌悪感を持っていた。ネガティブな考えが自分の中に植え付けられ、どんどん根を伸ばしていくことが許せなかった。

 

 Xなどに投下される様々なツイートは私も共感できる。財務省をすぐにでも解体し、自民党を政界から追放する。でもそういうことを行うには様々な利権や、権力、財力が絡んでいることを私は知っている。だからそんなことできるはずないと思ってしまうのだ。

 

 私が単純な文系ならばはっきりとツイートすることができたかもしれない。でも私には物事を総合的に判断する理系的側面もある。だから簡単に『財務省解体しろー!』とは言えない。そう簡単に行えることではないし、ただ文句を言うだけでは私は意味がないと思ってしまうから。

 

 そうすると私はツイートに共感しながらも、ネガティブな感情を外に出せず抱え込んでしまうこととなる。ただただネガティブな感情が根を伸ばすだけ。脳の容量の無駄遣い。エネルギー消費の無駄。

 

 だから私はこのブログを、時事ニュースのブログではなく、個人的な考えを綴る場とした。その方がずっと私にとって楽で、継続できるものになる。人を批判することは私には向いていない。

 

 アクセス数もアフィリエイトも後々考えるものとする。でもできればあまり一目に着きたくない。私は小説で数十万件のアクセスを獲得し泡銭が入ってきたことがあるが、あれは中々苦しい物だ。

 

 プレッシャーが強くなり、良い小説を作らないといけないと思うようになる。自分しかいなかったはずの領域に、見知らぬ人たちがどんどんやってきて、批評する。苦しい以外の何物でもない。

 

 とは言いつつもこんなことを書いているということは、人に自慢したくて書いているのだ。無意識のなかでこんな風に書いてしまうとは、自分のことが恥ずかしくなってくる。

 

 本当に承認欲求から解き放たれるというのはなかなか難しい物だ。だから私も含む若いZ世代はXから離れられない。私のように小説を書くより簡単に、イイネやリツイートを集められる。

 

 私は承認欲求に囚われないためにもはてなブログへやってきたのかもしれない。でも、たぶん、一年後ぐらいにこのブログを見て後悔している自分も想像できる。なんて恥ずかしいことを書いてしまったんだろうと。痛い奴じゃないかと。

 

 でも今はブログに投稿する内容がこれしかないため一応投稿しておく。

未来の選択と生まれた環境

 才能より努力、努力より継続と人は言う。けれどそれは本当だろうか?天才に努力や継続で打ち勝つことが本当にできるのだろうか。私は出来る気がしない。できないと思ってしまう。

 では例えを出して考えてみようと思う。

 

才能と努力の因果関係

 人の才能を1から10であらわす。そしてできる努力量も同じように1から10であらわす。才能も努力も最大で10までしかない。2つをかけ合わせた最小は0で、最大は20となる。

 例えばAという人間に数学の才能が5ある、Bという人間には才能が3ある。Bは才能だけでは勝てない。でもBが努力を3行うことによって、結果は6。Aに勝つことができる。ここだけ見れば、才能に勝つことができるように見える。

 でもAもBも努力を10した結果、勝つのはAだ。才能の部分はどうしても変えられない。

 

誰も勝てない才能ある人間

 政治や経営などはこれに当てはまらない場合がある。でも一芸などは特に才能に頼ることになる。どうしたって絵の才能でピカソには誰も勝てない。ピカソの絵は子供っぽいと特殊な教養が無いと思ってしまう。でもピカソは人間印刷機みたいなものだ。見た絵を一瞬で複製させてしまう。

 それにレオナルド・ダ・ヴィンチの頭脳には誰も勝てない。万能の天才だ。きっと彼のような人間はもう二度と生まれてこないであろう。

 

 少しわかりにくい例えをしてしまった。誰にでもわかりやすい例えをするとすれば、宮崎駿。色々と物語を改変しまくっている改変王で、小説好きからは反感を買っているかもしれないが、すべて面白いのは確かだ。

 誰も世界中の監督だって、宮崎駿には勝てないのだ。あのスピルバーグ監督が『私はカーチェイスは撮らない。宮崎駿に勝てないからだ』と言わしめた。あの宮崎駿初監督作品であるカリオストロの城のカーチェイスほどの物を撮ることができないと言ったのだ。

 

 それも初監督の作品に勝てないのだ。これは宮崎駿の才能以外の何物でもない。

 

 

才能の種類

 とはいっても先ほどの人たちは分かりやすい才能のある人たちで。才能には様々なものがある。先ほどの人たちは一芸に秀でている。ヒトラーは話術に長けている。楊貴妃オードリー・ヘップバーンは容姿が良いという才能だ。あとは運という才能なんかもある。なぜだかすべてうまくいく人間。

 私は好きなことに集中できるという才能があると思う。これはアスペルガー症候群の性質の一部だと思うが、このおかげで好きなことにとことん集中できる。今こうやって文字を書き続けられているのもそういうものなのではないかと思っている。

 

 こうやって人は人は時に私のように才能で悩み、才能がある人間を羨み嫉妬する。でも才能があるからと言ってすべてうまくいくわけではない。ピカソは上手い絵しか描けなかったために、子供の描くぐちゃぐちゃで秩序のない絵がずっと羨ましかった。オードリー・ヘップバーンは美人だからという理由で石を投げつけられた。理論物理学の才能があったオッペンハイマーは、原爆を作り後悔の涙を流した。

 

 才能があればと羨むこともあるが、本当に才能がある人間は凡人に憧れている。どれが幸せで、不幸かは分からないが、抜群の才能があることによって未来が決められてしまうというのも悲しい物だと私は思う。そう思うと、医者の子供や政治家の子供も似たようなものだ。

 安全で平穏で他の家よりも生活水準が高いが、将来は狭められている。イラストレーターになりたい!なんて軽々しく言えないだろう。だから私は適度に才能がある凡人で、普通の家庭に生まれたことにつくづく感謝している。

 

 

ドーパミン

 有り余る暇をつぶそうとするときあなたは何をするだろうか。積み上げられた本を読むだろうか、YouTubeを見るだろうか。勉強するだろうか。眠るだろうか。

 それは人によってさまざまだと思う。どんな行動も有意義かもしれない、またはそうでないかもしれない。私は勉強や読書を有意義だと思っているため、できるだけそういうことをしようと努力している。

 根っからの本の虫ならばそんな努力しなくとも自然と本を手に持っているのかもしれないが。私は凡人で怠け者で、好きな四字熟語は『現実逃避』だ。ただ暇をつぶすだけならば自然とスマホを手に取ってSNSを開いてしまう。

 十四歳からスマホをてにしているけれど、これほど依存性が高いものは世の中に無いと思っている。tiktokはその依存性からインストールして半年程度でアンインストールした。あそこまで時間を無駄にできるアプリケーションは中々である。YouTubeは一つの動画で区切りがつくが、スワイプすればどんどん面白い動画が流れて私の頭にドーパミンを放出する。

 だが大切なのはこのドーパミンは一過性であり、動画を見た前と後ではストレスレベルが上昇することが分かっている。このドーパミンの名前を『クイック・ドーパミン』と呼ぶ。食べ物で例えると、一気に血糖値を上げ、満腹感を満たすことができる、お菓子や、白パン、白米などと言った炭水化物である。

 このクイック・ドーパミンを頭の中で放出し続けるとどうなるのかと言えば、ドーパミン中毒になっていき、スマホ依存へと陥いる。まるで薬物のお話の様ですが、ごく短な話だ。

 そのため様々な国で子供のSNS使用の制限をかける法律などが定められるようになったが、私はそれはとても良い傾向だと思う。子供は自分で自分の制御をすることができない。ゲーム依存と同じかそれ以上太刀が悪いスマホ依存であれば、すぐに依存してしまう。

 まるで老人みたいなことを言うが、目が悪くなり、睡眠時間が減り、朝目覚めることが困難となる。それは発達に対して悪影響である。例えば睡眠時間が減ると、海馬が成長せず、短期記憶が出来なくなる。その影響を一生背負って生きていくことになるのだ。

 判断がつかない子供にむやみやたらにスマホを与えるべきではない。高校生でも簡単にスマホ依存症になってしまうのだから。だから私は中三でやっとスマホを与えてくれた両親に感謝している。小学生のうちに与えてくれなくてよかったと。ただでさえ頭の出来が良く無いのに、もっとバカになって居るところだった。

 また、インターネットにつながないという選択肢もある。私の友人で家がインターネットでつながっていないという子がいた。その子は中学生だというのに夜九時には寝ていて、朝ゲームをしていると言った。その子は本は好きだが宿題以外勉強せず、ボカロや歌い手を推していたが、学年で一番成績が良かった。その子の兄妹もみんな成績上位者だった。それに平和主義者で、誰にでも優しい。

 もちろん遺伝子的なものもあると思うが、睡眠をとることと、SNSでつながらないことは大切だと思った。

 人格を形成する際、SNSは大きく影響を受けるだろうと私は思う。ネガティブなコメントや情報があふれ出て、うつ病へのリスクを高めることとなる。また承認欲求を満たしたいという理由で危ないことをしでかすかもしれない。イイネの通知でいちいちスマホを確認し、ドーパミンを出すのも危ない。ドーパミン中毒に陥る。

 様々なスマホ依存の本が書かれているが、スマホ依存の人間は本を読まない。長い文章を読まない。というか読めない。コスパやタイパを重視といえば聞こえはいいが、そこまで集中力が持たないのだ。20分程度の動画さえ今は見られない若者が多いと思う。

 マンガの登場人物さえ覚えられないらしい。小説なんてもってのほかだ。なんだかそれは可哀そうなことだと思ってしまう。スマホの世界は二次情報や、三次情報ばかりがあふれている。信用度が低い物も多い。だが本は実績のある人間が書いた一次情報なのだ。啓発本なんかはショートスリーパーになる方法なんて馬鹿げている物もあるが、スマホよりは信用できる。それに情報としての深さがスマホとは段違いだ。マリアナ海溝である。

 ドーパミンとしても良質なものが放出される。クイック・ドーパミンの逆で、スロー・ドーパミンという。クイック・ドーパミンが一瞬力を発揮するのに対して、スロー・ドーパミンは長く保持され続け、将来にも役に立つような経験や体験となる。

 けれど放出することが難しい。脳の大部分を使って考えたり、記憶したりしなければいけない。それが難点だ。自分から動いて放出するしかない。好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、趣味に打ち込んだり、運動したり。景色を楽しむこともいい。スマホを見るより自分で動かなくてはいけないが、こちらの方が良質なドーパミンである。

 だから私は出来る限り、スロー・ドーパミンが放出されるように意識して生活している。暇なときは読書し、勉強する。

 それでもスマホを手に取ってしまうときがある。スマホには快楽が詰まっているため、いくらでも暇つぶしが出来る。今日も私はスマホと格闘しながら、時間をうまく使うために自分と相談している。それでも私は面白い動画を見て大笑いすることもあるためそいうところは大好きだ。可愛い動画にもたくさん出会える。

 

 

 

若者の情報リテラシー

 最近Xをみなくなり、はてなブログばかり見るようになった。情報の流れが速く、私にはついていけない。もっと一文情報だけでなく、鳥のように俯瞰してみるということもできるのだろうけれど、私はまだ17歳で、論理的思考というものはそこまで身に付いていない。論理的思考は、年齢が上がるにつれてレベルアップしていく。先天性よりも経験だからだ。

 

 Xに居続けると、誰かが批判をして、その批判を批判しているという光景をよく目にする。もちろん可愛らしい写真や面白い写真も流れてくるが、トレンド入りしているのはネガティブで批判の的になりやすいもの。

 

 私は一つ一つの意見を深く考え、どちらが正しいのか深く考える。パッと見て間違っていると思うものも考える。それは私が間違っているかもしれないから。そのうちにまたツイートが大量にされて情報の波にさらわれていく。

 

 きっと私と同じティーンエイジャーはここまで考えていないと思う。どちらの意見がみんなの意見なのかを見てどちらかへ乗っかる。ツイートを読み怒りが沸いたり、笑ったりする。そして自らもツイートする。

 

 政治運動の反対の場としてユーザーたちを扇動するのは良いと思う。アメリカはトランプが大統領となり、兵庫県と知事選挙では若者たちの投票で齋藤さんが返り咲いた。政治の場がマスメディアではなくSNS中心になったことを意味している。これこそ本当の民主化である。

 

 マスメディアの影響力だけでのし上がった人間が増税と、法人税の減税を繰り返しているためだ。来年また保険料を上げるらしい。バカすぎる。普通、増税は景気が良い時にするものだ。それなのに政府はデフレで増税をし続けている。バカすぎる。バカを漢字で書く気にも慣れない。馬と鹿に失礼だ。

 

 話がそれてしまったけれど、そんな自民党の悪ばかり目に見えるxの中にいると頭が痛くなってくる。

 そこに住みつけなくなり、私ははてなブログへと移住した。様々な交錯する情報の中にいるより、まとめられた記事が並べられているはてなブログの方が私の性に合っている。それにここでは私の考えを言葉にして書き起こし、投稿することができる。

 

 Xではできなかった。たった100文字程度に言葉をまとめても、意味はないと思う。言葉は短くすると短くするほどわかりやすいため、たくさんの人に伝わるけれど、それでは大切なことが抜け落ちることがある。

 

 でもここではどれだけ細かく書いても制限がない。私の記事を見たくない人間は見ないということができるし、読みたい人間だけ、読めばいい。Xではアルゴリズムによって、不可抗力で見ざるおえないことになる。

 

 コスパ、タイパを重視し、さまざま意見を取り入れ、社会に置いて行かれないようにすることも大切かもしれないが、Webの記事を見ていくだけで置いて行かれることはないと、私は思っている。

 

 マスメディアは真実を言っていることが少ないために信じる事をやめた。アメリカの大統領選挙でそれは顕著だった。マスメディアではハリス優勢と、日本だけでなくアメリカのニュースCNNでも報じていた。だが、ふたを開けてみれば、トランプの圧勝。

 

 これから情報の量が多くなり、時代の速度が上がっていくにつれて、時代に取り残され、今何が起っているのか分からない人間が沢山出てくると思う。時代の流れはSNSに左右されているが、私はその世界に居続けることは苦しい。

 

 通りすがりの人が話しかけてくるようなXのような情報媒体ではなく、図書館で本を見つけるようなブログの方が情報が整理しやすいのではないかと私は思う。

小説と記事の執筆の違いを感じている

 小説と記事に違いはない物だと思っていた。畑違いは畑違いでも、育てている植物は一緒だと思っていたのだ。でもこのたった二つの文で、私が小説を書いていた癖が露になってしまっている。

 

 記事を書く人間は、二文目のような回りくどい比喩表現での説明はしない。もっと率直な言葉一つで読み手に論理的な思考をさせる。私の書き方は相手の想像力をかきたたせるような書き方だ。

 

 それは私がゴリゴリのビジュアルシンカー(視覚思考者)なためだと思う。幼少期から絵を描くことが好きで、小説を読むと物語が映像として流れていく。もちろん音声付きだ。

 すると、面白い現象が起こる。なぜか登場人物の顔が似ていると思ったら、最終的に親子だった。とか血がつながっていたとか。そういうネタバレが、登場人物の相関関係について論理的思考をした結果ではなく、頭の中でのイメージで起こる。

 

 そのため私は口頭での説明なのがとても苦手だ。映像やイメージできない物や、事象について私は説明下手になる。例えばはっきりとしたイメージがしにくい政治やお金のことについて分かっていても説明できない。それらは言語思考者の場ということもあるが、情報というパズルのピースが多すぎて、情報と情報を組み合わせて答えを出し絵にするということができない。分かっていても絵にならないために説明できないのだ。

 

 このようにイメージの世界で暮らしている私にとって、記事を書くことは少し難しい。今かけているために書くことはできるのだが、どうしても比喩的表現をしてしまう。

 

 ここ三年アルファポリスで小説を書き続けていたために癖がついてしまったのかもしれない。比喩表現が好きという理由もあるかもしれない。最近読んだ村上春樹の『ダンスダンスダンス』では容姿端麗な少女について『ナイフで切り取ったような多角的な唇』とこんな言い回しをしていた。

 

 これを読んだ時、なんてシックでおしゃれな言い回しだろう。その上どれだけ綺麗な唇か想像が出来てしまう。私にこれほどセンスのある比喩表現が出来ればよかった。けれど生憎私にはこんな表現をする実力は無い。

 

 前の文を読んで違和感を感じた人がいるだろう。あっという間に小説風の一人称の書き方に変わってしまっている。きっと骨の髄までしみ込んでしまっているのだ。この小説的な表現の仕方というのは中々直らない。

 

 きっとこの小説的な書き方というのは、言語で言うとこの母国語に近い。ここからバイリンガルになることは難しい。様々な記事を読み、論理的思考のできる記事のような書き方をしていきたいと思う。

 

 それかもしくは、日記を書く。日記を書く方が性に合っているかもしれないが、自分のことしか書けないのは苦しい。仕事にできない。それにそのうちきっと妄想日記になって、ノンフィクションではなくなってしまう。

 

 小説だけではなく、ウィブライティングのスキルもアップさせていけるよう勉強していきたいと思う。

 

 

主婦年金廃止について6人家族の高校生の意見

 朝目を覚まして一番に母がイライラとした様子でテレビのニュースを眺めていた。

 

「主婦年金廃止だって。老後になってもお金がらえないかもしれない」

 

 いつもは穏やかで、早々怒りをあらわにしない母である。しかし家族5人プラス祖母、計6人の家計のやりくりをしている母にとってお金は大切なものだ。だからだろう。

 

 

 この制度の廃止で、私の母のように怒りをあらわにした専業主婦、主夫の方、多いと思います。専業主婦は外で働くより大変かもしれません。子供の世話をして、家族が多ければ多いほど家事の量は増え、少しでも家計の足しになればと、扶養の範囲でパートを行う。

 

 そのうえ年金までなくなる。これで誰が結婚して子供を産むって言うんですか。誰も結婚したがりませんし、子供も産めなくなりますよ。それに共働きの人だって、好きで働いている人ばかりじゃありません。飢えずに、食べて生活していくために共働きなんです。

 

 消費税が上昇して、物価が上がって、何もかも値上がりして。もう共働きじゃないと生きていけないから働いているんですよ。

 

 オールドメディアでは専業主婦だけ年金をもらうのは不公平だという意見が見られていましたが、不公平でいいじゃないですか。だって独身貴族や子を持っていない夫婦が優雅な休日を過ごしているとき、専業主婦は家族のいつも以上に家事をこなしながら、子供達の相手してるんですよ。

 

 子どもがいるといろいろ制約もあるし、兄弟が四人もいると毎日何かしら事件が起こるんです。そんな子供四人育て上げた母に年金無しなんてそんな酷いことありますか?母は家族の世話以外に、私達子供のメンタルのフォロー、祖母の病院付き添い、家計のやりくり、手続きとか、そういう細々としたことを全部やっている、家の社長なんです。

 

 そんな人にフルタイムで働けっていうんですか?家庭崩壊しますよ。母親というのは家の要だと私は思います。母親が家に居て、精神的に安定していることで子供たちは、母親に頼ることができるし、子供たちの心の成長にもつながります。

 

 ですから、何が何でも専業主婦年金の廃止は、断固反対です。独身貴族が増え、子育て世帯が少ないと言え、専業主婦がまだまだいるのは事実です。時代の流れと専門家は言いますが、時代が変われど母親の形は変わらないはずです。子供を育て上げる母親へのささやかな国からの感謝として年金はあって当然であると、私は思います。

 

未来のイラスト業界:AIに挑むイラストレーターの戦い

 イラストレーターという職業はイラストが好きな人にとっては一度は夢見る職業でしょう。自分の絵が認められて、お金をもらって生きていくことができる。そんな素晴らしいことはありません。

 

 私もできる事ならば、自分が描いた小説で生きていきたいものですが。それは一つまみの人しかなれない頂点です。ほとんどの小説家は小説を書くほかに、本業をしています。小説家と比べると、イラストレーターは人口が多い分なりやすいですし、イラストだけで食べていける人は小説家より断然多いです。

 

 しかしながらAIの大頭により、イラストレーターの将来が危ぶまれています。XにはAIイラストが大量に投稿され、イイネやリツイートを稼いでいる投稿もあります。一からAIに作ってもらうイラスト。または自分が描いたイラストをAIによってよりよく生成してもらうなど、作成する段階は様々ですが、AIが力を貸してくれていることは確かです。

 

 人気のイラストレーターのイラストをAIに学習させて、生成する人、無名のイラストレーターの絵を勝手に利用し、AIに改変させて投稿する人。マナーを守らない投稿も横行しています。

 

 それによってAIイラストを毛嫌いしている人もいる事でしょう。しかしながら、これからAIがイラストレーターという仕事を奪っていき、AIイラストレーターとブランドを持つプロのイラストレーターしか生き残っていけなくなるかもしれません。

 

 ここでなぜAIイラストレーターが生き残っていくのかと言いますと、AIにイラストを生成させるとしても、思った通りのイラストをAIによって生成させることは簡単な事ではありません。AIの特性を理解し、適切で詳細なプロンプトを入力できる必要があります。

 

 そこにはある程度の想像力と、技術力が必要というわけです。そしてAIだとバレないイラストを生成することができるAIイラストレーターが生き残っていくのでないかと思います。

 

 これが理不尽に思えても、歴史を見れば簡単な話です。いらすと屋を皆さんは御存じですか?誰でも使えるフリーイラストを提供しているサイトです。このサイトには様々なイラストがあり、よく見かけると思います。

 

 いらすと屋がやってきたことにより、地方の学校のプリントや、説明書に使うシンプルで分かりやすいイラストを描いていたイラストレーターの仕事がなくなりました。企業のホームページや、パンフレットなら、無料のいらすと屋を使うわけにいかないため、まだ需要があるかもしれませんが、こじんまりとやっていたイラストレーターはつぶれてしまいました。

 

 これは、本屋も同じ話です。アマゾンが出来たために、地方の本屋はどんどんつぶれていきました。生き残ったのは大手の本屋だけ。

 

 イラストでも同じことが言えます。手軽でお金がかからない。皆AIを使うに決まっています。今はAIに需要がなくとも、五年も経てばほとんどのイラストがAI生成になっていると思います。

 

 きっと、AIの性能も上がっているでしょうし、無料で質のいいイラストを作ることができるサイトというのが沢山出来ていると思います。

 これはどうしようもできない時代の流れです。絵を描くより、AIを勉強するほうが稼げる時代になるかもしれません。

シュレーディンガーの猫の不思議

シュレーディンガーの猫とは?

シュレーディンガーの猫は、量子力学という物理学の分野で有名な思考実験の一つです。この実験は、物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが1935年に提唱しました。量子力学は、私たちが普段見たり触れたりする物体とは異なり、非常に小さな粒子の世界を扱います。この実験を通じて、量子力学の不思議な特性をわかりやすく説明しようとしたのです。

思考実験の内容

シュレーディンガーの猫は、以下のような設定で行われます:

  1. 箱の中の猫: 頑丈な箱の中に一匹の猫を入れます。この箱は完全に密閉されており、中で何が起こっているかは外から見ることができません。

  2. 放射性物質: 箱の中には、微量の放射性物質が入っています。放射性物質は、一定の確率で粒子を放出する特性を持っていますが、いつ放出されるかはわかりません。

  3. ガイガーカウンター: 箱の中には、放射性物質が粒子を放出したかどうかを検知するガイガーカウンターがあります。これは、放射線を検知すると信号を送る装置です。

  4. 毒ガスの仕掛けガイガーカウンター放射線を検知すると、箱の中の毒ガスの仕掛けが作動し、毒ガスが放出される仕組みになっています。これにより、猫は毒ガスにより命を失うことになります。

状態の重ね合わせ

この実験の核心は、「状態の重ね合わせ」という量子力学の概念です。放射性物質が粒子を放出するかどうかは、確率的に決まります。つまり、放射線を放出した場合も、放出しなかった場合も、どちらの状態も同時に存在するということです。

箱を開けて中を確認するまでは、猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」の両方が重ね合わさった状態にあると考えられます。これは、私たちが日常的に経験する現実の世界とは大きく異なる考え方です。

観測のパラドックス

シュレーディンガーの猫の思考実験は、量子力学における観測の問題を提起します。具体的には、量子の世界では観測することによって状態が決まるという「観測のパラドックス」です。箱を開けて観測するまでは、猫の状態は「生死が重ね合わさった状態」にあります。しかし、箱を開けて中を確認する瞬間に、猫は「生きている」か「死んでいる」かのどちらか一方の状態に決まります。

このパラドックスは、量子力学の不思議な特性を象徴しています。私たちが普段見ているマクロの世界では、物体は常に一つのはっきりとした状態にありますが、ミクロの世界ではそうではないのです。

実際に猫を使うわけではない

ここで重要なのは、シュレーディンガーの猫はあくまで思考実験であり、実際に猫を箱に入れて実験するわけではないということです。これは、量子力学の理論をわかりやすく説明するための仮想的なシナリオです。実際に猫を使うといった残酷なことは行われませんので安心してください。

まとめ

シュレーディンガーの猫は、量子力学の不思議な性質を理解するための思考実験です。この実験を通じて、量子の世界では状態の重ね合わせが存在し、観測することによってその状態が決まるという概念が紹介されます。日常の経験とは異なるこの理論は、物理学者たちにとっても理解が難しいものですが、シュレーディンガーの猫の例えによって、少しでもわかりやすく伝えることができるのです。

 

継続する人はたったの5%

ノアの雑多ブログへお越しいただきありがとうございます

 

 皆さんはこれを見てどう思うでしょうか。

 

行動に移して継続する人の割合


 この5%は、1年継続できた場合の割合です。

 これを踏まえて、この5%は多いと思うでしょうか。少ないと思うでしょうか。正直私は直感的には少ないなと思ったものの、今までの経験上、これぐらいが妥当かなと思いました。それより多い位かなとも思いました。

 

 そして継続できる人がこんなに少ないのであれば、継続できる5%を分母として、成功する人を分子としたならば、その確率はどれほど少ないのだろうかと思いました。

 

 でも継続という単純なことを続けられるだけで、この5%に入れるというのであれば、小さな確率だとは思いますが、夢への道は開かれるのでしょう。

 

 一番上の表だけではどれぐらいの期間で人が継続をやめてしまうのか分かりません。下の図を見てください。

 

筋トレの継続率

 画像が荒くてすみません。これはフィットネスクラブの継続率です。12か月続けた人は3.7%と、前の画像より低く、2か月の段階で半分近くの人がやめてしまっています。

 6か月時点で9割近くの人が辞めており、それからはやめる人が確実に少なくなっています。

 

 要は6か月続けられれば高確率で1年続けられそうだということです。

 

 

 私はこれまで、そこまでできたことがありません。でもブログは辞めずに続けていけたらと思います。

 

 ではどうやったら、継続し続けることができるのでしょうか。

 

 継続し続ける方法として、ドでかい、ビックな目標を立てる。というものがあります。もしも給料を上げたいなら年収1000万という目標よりも、年収1億の方が良いです。

 

 科学的根拠として脳の部位である、偏桃体(へんとうたい)大脳基底核(だいのうきていかく)外側前頭前皮質(がいそくぜんとうぜんぴしつ)眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ)という四つが刺激され、目標達成に向けた行動が促進するためです。

 すると、新しい情報も吸収しやすくなります。

 

 

 もう一つ、継続をする方法として、目標達成率を視覚化する、です。

 例えば、行動の実施状況をグラフ化したり、ファンを増やしたいなら、フォロワーの毎週の増加率を追跡するなど。

 『見える化』することで、モチベーションを高く保つことができます。

 

 

 このようなことを行う事で、継続し続けることができるかもしれません。最終的には自分次第ですがね